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愛はどんな味でしょうか? Twitter:@to_darui

もしも高橋優が秋田に生まれてなかったら

 

 

 

 

 

 

もしも高橋優が秋田に生まれてなかったら

 

 

もしも高橋優が秋田に生まれてなかったら。大都会東京に生まれていたら、恐らく「リアルタイムシンガーソングライター高橋優」は生まれていなかったと思う。もしも東京に生まれてたとしたら高橋優は世間を憂いたり自分を卑下したりひねくれたり闇を持ったり光を持ったり故郷を愛したりしない、ごくごく普通の眼鏡のサラリーマンか通訳さんか…とにかく普通の仕事をして普通に家庭を持ち普通に人生を歩む何の変哲もないただの「普通の高橋さん」になっていたんじゃないだろうか。

 

 

彼の全てが秋田の山奥で培われたとは到底思えないし思わないけれど少なからずその人間を構築するにあたって生まれ育った環境はそれなりに影響があると思う。田舎というのは良い意味でも悪い意味でも「閉鎖された空間」だから悪い事も良い事もすぐ広まるしすぐ蔓延する。ましてやそんな田舎の「学校」なんて所は更に範囲が狭まって閉鎖されるから尚更。人によっては、生きやすい温室にも息苦しくて生きにくい場所にもなる。逆に「夢」や「希望」の類はとてもクリアに見えるのかもしれない。

 


生まれた街で感じた苦しさや窮屈さが今の彼の一部になっているんだとしたら、反骨精神みたいなものが東京から遠く離れた秋田だったからこそ培われたのだとしたら、東京への憧れは遠くに居ないと生まれない特別な感情だろうし、あの独特な空気感や雰囲気の端に感じる親しみやすさも秋田という土地ならではなのではないだろうか。

 


出身の村が合併して今はもう無いとか家の裏にある山で夜な夜な歌の練習してたとか電柱より生えてる木の方が多いとか日本全国どこでも体験できます!みたいなことをしていない彼だからこそ、人口が減り続けて高齢化が止まらない若者が流れていく地元を音楽でなんとかしたい!とか、自分の音楽で何か出来ることは…と思えるんじゃないだろうか。良い意味で窮屈で不便だったからこそ、後にその土地に対して愛が生まれたんじゃないだろうか。

 

 

 

 


もしも高橋優が秋田に生まれてなかったら「高橋優」という人間も思想も音楽も存在しなかったでしょう。そんな自分の世界を考えてみて。

 

 

 

どうしようもない憤りを感じたとき

死にたくなるくらい悲しかったとき

嬉しくて楽しくて幸せを沢山感じたとき

挫けてしまったとき

倒れてしまったとき

何も見えなくなってしまったとき

 


そこには彼の音楽も言葉も無い。

 


そこは人間だから、それが無いなら無いで別の「何か」が「高橋優」になり得たポジションに収まって何ら不自由なく生きていくんだろうけれど高橋優という存在を知った上でこんな「もしも」を考えると怖さにも近い寂しさが湧いてくる。

 


月並みなことを言うけれど、色々考え出すと結局全てが「奇跡」なんだろうなという結論に至る。

 

高橋家に少し遅れて末っ子長男として高橋優が生まれたことも、そこが秋田県だったことも、音楽が好きになったことも、祖母が亡くなった悲しみの中で偶然出演したイベントに現事務所のマネージャーが見に来ていたことも、そのマネージャーが当時の高橋優に何かを感じたことも、全部奇跡だ。

 
逆に聞く側にも何度か奇跡が起きないと高橋優の音楽には出会えてないはず。リスナーの数だけ奇跡が起きてると思うと…なんて言うとなんだか某歌手の歌詞みたいになってくるけれど本当にそう思う。あなたは一体どんな奇跡を起こしましたんですか?

 

 

長々と好き勝手に書いてきたけれど、結局のところ「秋田に生まれてきてくれてありがとう」という気持ちなんだ。「お前一体誰ポジションなんだよ」って言う自分の声も聞こえるけれど、高橋優という人間と同じ時代生まれ生きているこの瞬間が奇跡なんだきっと。彼の音楽で心を動かしているこの瞬間が奇跡。あぁ、なんてチープな表現なんでしょう。

 

でもね、割と本気でそう思ってるんだ。

 

 

 

もしも高橋優が秋田に生まれてなかったら、

   きっと高橋優は存在していなかっただろう。

 

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